2009年11月29日京都の島津合唱団の発表会に、茨城大の「もずコール」OB会の仲間12名が参加!との記事が朝日新聞・茨城版に11月23日掲載された。
作曲者の谷嶋氏が体調不良と書かれているのが気になるが、元もずコールの一員としては嬉しい限りである。
「いわし雲」 1966年もずコール演奏
「いわし雲」島津混声合唱団withもずコールOBの演奏 2009年
上記の朝日新聞・茨城版の内容は京都新聞や毎日新聞にも掲載され、asahi.comにも「いのち〜歌い継ぐ〜として次の通り
2009年11月27日
茨城大OBから島津混声合唱団へ
半世紀余り前、茨城県で生まれた一つの曲を、京都市の島津製作所のコーラス部が歌い続けている。4年前、曲を作った茨城大学(水戸市)の合唱団OBがそれに気付き、交流が始まった。一緒に歌うことを願い始めた2組の思いは29日、京都で実現する。
1957年、茨城大の歌声サークル「もず・コール」の一員で、当時大学4年生だった谷嶋早苗さん(74)が部室で一つの詩と出会った。大谷浩之さん(享年33歳)の「いわし雲」。同県東海村の結核療養施設で大谷さんが治療を続けていたときにつづった詩だった。「穏やかな表現の中にも、ものすごい強烈なものを感じ、次々とメロディーが浮かんできた」。初めての作曲にもかかわらず、谷嶋さんは曲を書くのに夢中にな
った。完成した歌は同サークルにとって欠かせない作品となり、学内にも広まった。
ただ、サークルは約30年前に合唱団からバンド演奏に転じ、歌われなくなった。
「もう一度いわし雲を歌おう」。81年、「もず・コールOB会」が結成された。定期的に集まると、必ず最初にいわし雲を歌う。「いわし雲は青春そのものだった」。OB会代表の久保田俊雄さん(72)は語る。
そんな活動を続けていた05年。久保田さんは知人から、「いわし雲が『しまこん』というところで歌われている」と耳にした。インターネットで調べると、島津製作所のコーラス部「島津混声合唱団」で歌い継がれていることが分かった。「茨城ならともかく、京都で残っているなんて、信じられなかった」と久保田さんは振り返る。
京都でのきっかけをつくったのは、島津混声合唱団OBの会の副島啓義さん(70)だった。副島さんは59年に神戸大学に入学し、合唱団に入った。音符も読めなかったが、負けず嫌いの性分で、オペラや民謡などの楽譜を片っ端から集めて勉強した。その中に「いわし雲」があった。
副島さんは45年8月6日、広島市の爆心地から約2キロのところで被爆した。親類の多くが犠牲になった。「反戦、平和、命への思いがこの詩にはある。自分の思いと共通していた」。大学で歌い、卒業後は島津混声合唱団に持ち込んだ。多くの人が、この歌を歌っている時に、こみ上げてくるものがあると口にしてくれた。いわし雲は同合唱団の「持ち歌」になった。
北区の市北文化会館で29日に開かれる同合唱団の演奏会で、もず・コールOB会の12人が特別出演し、初めて一緒に歌う。指揮は副島さん。「ありふれた言葉だけど、感慨深い。いろいろな思いがこみ上げてくると思う」
作曲した谷嶋さんは体調不良のため、現地に行くことは難しい。それでも、「自分が作曲した歌が歌い継がれていたことが、なによりも幸せ。50年来の友達に会えた気持ち」。一つの歌がつないだ縁に万感の思いを感じている。
29日の演奏会の問い合わせは、今井さん(090・3355・1591)へ。
■半世紀前に誕生「いわし雲」■
いわし雲が流れて行くよ
サナトリアムの屋根の上を
ひしひしと身を寄せあってゆくよ
去年おれはあの雲を見たよ
死に近い母のかたわらで
おれの家と隣の屋根の
間の空に
うっすらと流れて来たのを見たよ
母は戦争の頃をうなされていたよ
食べものと病気の永い息子のことを
母は知らないんだよ
戦争を起こした奴を
おれは縁側に立って泣いたよ
いわし雲が消えて行くまで
いわし雲が流れて行くよ
サナトリアムの赤い屋根の
しずかな午後の光の中を
いわし雲が流れて行くよ
アンコールは谷嶋氏の指揮で「いわし雲」を
参加したもずコールOBのメンバー
"いわし雲"
「いわし雲」を歌う度に作者の見たのは?、作曲・谷嶋先輩のイメージは?と思う。
澄んだ秋空に”いわし雲”が流れると、ついこの歌を口ずさんでいる。
2011年秋撮影