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土と野菜作りに挑戦

笠井宗男

 

1. ことはじめ

平成3年5月の連休、私は単身赴任の大阪支社より久々に帰宅し、のんびりとした気持ちで、我が家の東側に広がる畑を眺めていた。当地は数件の農家が税金対策として残した3ヘクタールほどの農地で、我が家にとっては太陽の光と開放感を享受できるありがたい空間である。側近の300坪ほどの土地はA地主の所有で、毎年オカワサビを栽培していたが、今年も作付けの時期を迎えていた。

 ぼおーと眺めていると、折りから、地主のおやじさんがやってきたので話かけた。私も農家の出身で畑仕事の手伝いの経験があり、農作業や作物の話に話を合わせるにはさほど苦労はしない。当地主は不動産業や建設業にも携わっており農作業に手が回らないので、病害虫に強く手間のかからないオカワサビをつくっているとのことであった。連作により、収穫が年々少なくなっている上に出荷の価格も安くてとても採算が合わないが、宅地にすれば税金が高くなり所有を維持できなくなる。「ここは畑地としてこのまま残したい!」のだが、「土地があっても農業では現金収入が少なくてだめだ」とぼやきもしていた。

猫の額ほどの土地にささやかな家を建て、ローン返済に追われている我が身を思えば、「贅沢な悩みだなあ」と思いつつも、「貸し農園にしてはいかが?」と提案をしてみた。最初は「PRや集金が面倒くさい」と乗り気ではなかったが、手をかけず農地として所有するには得策では!と薦めた。「特にPRしなくても口込みで借り手はすぐつくでしょう」と話をしていると我が家のかみさんも家から出てきて話に加わり、自分も野菜作りをしたいし、「近所へのPRと集金なら当面引き受けてもいいですよ!」と言い出した。この発言が決定打となり、約300坪の畑は貸し農園になることになった。5月3日午前10時のことである。

 程なく地主は昼食に帰り、午後2時頃、50mの巻尺とビニールテープを持ってやってきた。説得した手前、私も長靴をはいて手伝うことになった。当日は畑の境界線に木製の棒を50cmくらいに切ったものを所々に差し、ビニールテープを少し張るにとどまったが、2日後の子供の日には大方 10坪単位 にテープで区切られた貸し農園の準備がすっかり出来ていた。

 一区画10坪で 4,000円/年の由。あらかじめ我が家に面した20坪ほどを借りたいと意思表示をしておいたら、やや広めの24坪が区画され、そこを借りることになった。近所のかみさん連中も集まってきて、またたくまに借り手がつき1週間で半分ほど、その後ほどなく満杯に。我が家のかみさんは地主に約束をした手前、畑の区画図をノートに書き、借手の住所 ・氏名・ 電話番号を記入し、コピーを地主に渡した。そして第1回目の集金を担当した。これより我が家の家庭菜園による野菜作りが始まったのである。

自宅前の貸し農園一番左手一区画が我が家のネギ畑

めずらしさと期待も膨らんで家内の貴重な楽しみともなったようである。1年たち、私も東京勤務となり大坂より戻り、時々手伝うようになった。かみさん連中がよく出入りするようになり、井戸端会議ならず畑端談義の声も笑い声とともに聞こえてくるようになった。たまには水をもらいにくる人もあり、なりふりに無頓着な私への家内のチェックも厳しくなった。夏の暑い日に窓を開けてステテコ姿でいたり、早朝パジャマのまま畑に行ったりするとてきめんに「お父さん!」と雷がとんでくる。やや窮屈?になった感もある。

借り手の皆さんは畑によく足を運び、熱心な人が多かったようである。うちのかみさんも野菜作りの本を2〜3冊買いこんでかなりうるさくなっていた。種まきの時期、石灰による土壌の中和、肥料の投与、連作を避けた作付け計画等、私に向かって生徒をつかまえて説教する先生ような指導的態度を示すに至っては少々閉口したが、おおむね感じ入るところ大であった。

家庭の平和のため全てを家内に任せておいたが、畑が連作に疲れて、作付け計画が難しくなってきた頃、新しい畑を求めての動きが密かに動きだしていた。

 

2.休耕田への挑戦

平成9年、菊の香漂い、紅葉に秋の深まり行く良く晴れたある日「ちょっとつきあってくれない?」とかみさんに誘われた。「めずらしいこともあるものだ」と思いつつ、「何だ?」と愛想なく答えた。かみさん「黙って自転車でついてきて!」。もったいぶった言い方にむっとしたが、まあいい、暇な休日だと思い、ついて行くことにした。

かみさんのペダルを踏む足の力は尋常でない。生き生きとしている。昨今みたことない勢いである。近所をスウーと抜け、新河岸川の橋を渡り、さらに住宅地を通りぬけると視界が開けた場所に出た。近くに新河岸川に流れ込む水路があり、西側に田んぼが収穫後の切り株をのこして幾筋も広がっている。東側は少し高くなった土手の外に30坪程の畑があった。畑の南側は狭い道路を隔てて住宅、東側には直径30cmくらいの木が枝を張り巡らし、その東に住宅が続いていた。

「ここどうかしら?」とかみさんは畑を指さしていう。私は渋い顔をして「こんな所を借りるつもりか」とあきれて答えた。「ここは東側の木の根が張ってくる。朝日も乏しい。さらに家から遠い。従って、借りる畑としては不向き。ここはだめだ!」との一括にすぐ納得してくれた。

 しかし次の瞬間「じゃ次を見て!」とまた自転車をこぎだした。しょうがないからついて行くと、そこから約700mほど新河岸川下流に位置した田んぼの中の細道をどんどん進んで行く。「こやつ何を考えておるか」と思いつつも柔らかい秋の日差しとのどかな田園風景に見とれながらついていった。

 まもなく着いたところは広い田んぼの東端、40〜50坪程の休耕田である。人家からは近い所でも100mほど離れており、人込みからも全く隔絶した土地である。周りへの気兼ねはいらない。西側は田んぼ、東側は葦の生い茂った水路。休耕田と言っても枯れかけた草にイナゴが跳びかい、水路に近い所には葦も生えていた。放っておけばほどなく葦に覆われてしまいそうな湿地帯である。

 じっと見つめてていたら「面白そうだ!」と一瞬ひらめきが走った。ここは女の手には負えない。「俺の出番か」とも思った。田んぼの泥を畑の土に変えるのは半端ではできないだろうとの予測はつくが、やってみるのも面白かろうと思った。なまくらな心身を鍛える「格好の道場」にもなるか? などと年甲斐もなくまじめに考えたりして「よし!」と心が動いた。

 

 決めた後、この休耕田は我が家の隣に借りている畑と同じ地主のもので、以前から家内と話が進んでいたことがわかった。 10,000円/年、時は平成9年夕日の美しい秋であった。

 

3.いよいよ春耕

 年が明けて春がきた。梅の香漂よう3月初めの土曜の午後、水音のせせらぎを心地よく聞きながら、長靴をはき休耕田に入る。土の表面は柔らかくなっているところもあるが、乾燥しているところは硬く、湿気の多いところはねっとりとかたまっている。まずは排水口を意識し、回りからスコップで堀をほるようにして葦の根を取った。葦の根は深くそして横に張って小さいタケノコのような芽を伸ばしている。思ったより手強い。 1時間もしたらいい加減に疲れた。腰をのばして眺めていたら、地主がやってきた。「こんにちわ」と挨拶をすると「あのよ、畦に近いところを、あんまり深く掘ると、畦が崩れっからよ、手加減して!」また、「明日耕運機で耕してやるから」というので、折角深く掘った堀を少し埋めてその日はひきあげた。

 翌日は日曜日、昼食をとり、家内をさそって出かけてみると休耕田は耕運機ですっかり耕されていた。土の具合はどんなものかと長靴に履き替え、備中鍬で掘り起こしてみると表面の20センチくらいは柔らかいがその下はねっとりと硬い。これではだめだと思い、さらに深く鍬を入れ、うねを高くして極力土を空気にさらすようにした。

 粘土のかたまりは乾けばかちかちに固まり、水を吸えば粘々となる。簡単には畑の土にならないことが解った。手強い相手である。しかしながらここで引き下がっては男がすたる。何度も耕せばそのうち何とかなるだろうと思い、それ以来4月末の連休にかけて何度もほっくりかえし、植え付けの準備をした。籾殻を焼いた薫炭も10俵ほど投入し、土の改良を意識しつつ掘っくり返した。

 5月の連休、いよいよ苗の植え付けである。ナス、キュウリ、トマト、プリンスメロン、各10本、スイカも大玉、小玉併せて10本、スイカとメロンは比較的水はけの良さそうな高うねに元肥として米ぬか、堆肥、化成肥料等を混ぜ合わせ直接根には肥料が届かないようにして植え、さらにわらを敷きビニールのフレームで囲い、所々穴を空けた。  ナスには支柱をキュウリとトマトには棚を作った。その他里芋と八つ頭は各15個程の種芋を植え、トーモロコシ、えんげん豆、モロヘイヤ、長夕顔、そうめん南瓜(金糸瓜)、地主のくれた、田のくろ豆は種を直播きとした。

 面白いから試しにとゴボウと山芋もやってみた。根が長く深く伸びるので、水はけが悪く土底の浅いこの土地では工夫がいる。薫炭の入っていたビニール袋の両端を切り、直径50センチ高さ70センチくらいの円筒にしこれを更に二重にして、半分を地下、半分を地上に出した植木鉢ならず底なしの植木袋をつくって、ゴボウは種、山芋はむかご(珠芽)を蒔いた。 むかごは昨年の秋、狭山市の智光山公園にスケッチに行った折拾ってきた。秋の陽射しを斜めに受けて薮わらの中にひときわ黄色く輝いていた葉のつけ根よりこぼれ落ちたものである。自然の山芋は粘りが強くとろろにすると特に美味である。

  「春は種播き秋実る。蒔かねば種も生えざらん。」今はなき、おふくろのお説教の口癖を懐かしく思いだしつつ、収穫への期待に胸膨らむ思いであった。

 

4.思わぬ来客

 5月になるとあちらこちらと苗代作りがはじまり、周囲の田んぼに水が引かれ、水路に水が流れ出した。中旬になると田植えも進み、一面に水を張った水田は家並みや植え込みの木々を映して、みずみずしく明るく色鮮やかな風景に変化した。稲の苗が根づき緑を増しながら水面に浮かび、水面は鏡となって周りを逆さまに映す。実景とその倒立の映像、更に色とりどりの色彩の織り成す風景の美しさは格別である。時折真っ白い鷺がえさを啄ばむ姿も見られる。飽かずじっと眺めていると自分の体が宙に浮いてくるような錯覚を感じる。

 かえるの声もひときわにぎやかになり、自然界が活気に満ちる。 ついこの間まで空堀だった幅70〜80センチ程の水路には水があふれ広い水田を潤し流れ出した。おたまじゃくしやザリガニは言うに及ばず、水路口の新河岸川より大きな鯉が何匹も遡上してくる。水路に沿った細道を自転車で畑に出向く折に何度も鯉の群れに出会っている。近づくと鯉さんがびっくりこいて狭い水路を逃げ惑うさまは豪快でありまた愉快である。

 しかし良いことだけでもない、我が畑にも水が染み出してきた。まずは北側水路の上流から、数日して南となりの田んぼに水が入るとそちらの側からも染み出してきた。これは遺憾イカンとまわりに浅い堀をつくって排水する。

 地主もやってきて「となりの田んぼは今まで休耕田だったのに、今年になって田んぼにしやがって頭にくるなあ」と言い訳けともぼやきともとれる呟きを発しながら「家に配水管があるからよ、埋めて川下のほうに流すようにするといいよ」と言って、ほどなく直径20センチ、長さ2メートルほどの配水管を運んでくれた。さっそく、南側のとなりの水田に沿った堀の東側の畦を切り、東側の低い堀に水を落とすように、また、流れる水で土手を壊さないように筒先を前に出して配水管を埋めた。

 これ以降はさしたる重労働はなく草引きが主な作業となり、家内が主となり私は手伝いにまわつていつた。植え付けたものは水分の多い1/4ほどの土地のものは成長が悪かったが他は大方順調に生育していった。

 そして6月中旬、梅雨に入り雨の日がおおくなった。水路の水位は高くなり、我が畑の堀にも水が流れ出し、北側の水路に沿った配水管のない堀は特に水量が多く、排水口を広げながら流れるようになった。そして梅雨の合間の晴れたある日、畑に出向いた家内は思いもよらない光景にびっくりして、私の帰りを待つて報告してきた。

 水が退いた畑の堀に50センチもある大きな鯉が白い腹を出して横たわっている。それだけではない。頭や腹の部分を水鳥かからすに突っつかれて、無残な姿をしていた。気持ち悪さをがまんし、備中鍬を使ってやっとの思いで畑から出した。とのことである。

 2〜3日してまた悲鳴があがった。「お父さんもういやだ!あんな所、もう返そう!」と言い出した。いやだ!と言う言葉に実感がこもっていた。何があったかと聞いてみると、本日も畑に出向いてみると、またしても鯉が横たわっている。しかも、3尾もである。てっきり死んでいるものと思い、大きな鯉を備中鍬で移動しようとした瞬間、鯉は勢いよく尻尾を振り暴れたそうである。度肝を抜かれ、きがつけば着物が泥だらけになっており、かっかしながら3尾とも水路に戻してきたとのことである。

 家内の驚き様を想像しながら「それは面白い!」と私は思ったがさすがに声には出せなかった。私も休日の早朝に期待を込めて出向いてみた。この思わぬ侵入者を1尾づつ2回確認することができた。清流に泳ぐ鯉なら、洗いや鯉こくにもできようが、残念ながらここの鯉は生活排水の流れ込むどぶ川に住む猫も跨ぐ程のこいである。この来客は最初の1尾を除いて生きているうちに発見されているが通算7尾を数えた。

 

5.夏の収穫

  畝を高くして水はけを意識して植えたプリンスメロン、スイカ、ナス、キュウリ、トマト等は比較的順調に成長した。ビニールのフレームをかけたプリンスメロン、スイカは特に勢い良く蔓がのび、ビニールの通風孔から頭をだすようになってからビニールのフレームをまくりあげて枝をはわせた。新河岸川に注ぐ近くの九十川の土手や荒れ地から草を運んでは畑に敷き、雨による泥はねと直射日光からの保護を図った。

 6月になるとプリンスメロンが黄色い花を着け、ぽつりぽつりとなりだし。予想以上に成績が良かった。果実は最初緑色をしているが熟するにしたがって白っぽくなり、実と蔓とが難なくはずせるようになれば完熟である。早く採りすぎたものもあったが、何度か試すうちに熟しているかどうかは見分けがついた。梅雨明け頃が収穫の最盛期で1日おきに3〜4個取れたこともある。10本の親株より7月から8月中旬にかけて60個ほど収穫できたと思う。甘みも程々、雨さえ降らなければ、出勤前の観察も楽しみである。何個なっているか。いつ取れそうか。一通り見渡すのに時間はかからない。1ケ月ほどプリンスメロンのデザートが続いた。飽きもせず良くたべた。知人にもあげた。

 スイカは蔓と葉っぱが勢い良く伸び、花は咲けども雄花ばかりでなかなか実がつかなかった。もともとスイカは水はけの良い土地を好む。ここはだめかもしれない。と半ば諦めながら観察をしていたが、梅雨が明ける頃から小玉スイカがなりだした。7月下旬から8月上旬にかけての強烈な陽射しが続くと更に様相は一変した。雌花が増えてきたのである。雌花をみると必ず雄花の花粉をつけてやるようにした。予め干し草を敷いてはいたが、実がなれば更に土に触れないように干し草を実の下に補充した。プリンスメロンがうらなりとなり、更に勢いを失いかけてきた頃、選手交代といわんばかりにスイカがごろごろと葉の間から頭をだしてきた。小玉は8月上旬より大玉は数も少ないが中旬より共に下旬にかけて併せて20個ほど取れた。まずまずの収穫であった。

 スイカはメロン以上に取り時期が難しい。ポンポンとたたいて音の響きで熟成度がわかるらしいが私には今だに自信がない。おぼろげながらの予測である。割ってみたら種が白かったり、できすぎていたり、何度か失敗した。

 ナスは毎日とってもつぎからつぎへとなり、食べきれないほどであった。キュウリは7月の前半は食べる分は取れたが次第に葉が白くかびが生えたようなうどんこ病にかかり、いまいちであった。ナスもキュウリも実の太りは早いが、それに比べトマトは茎の成長は早いが実なりが少なく、赤くなるまでが長かった。脇芽を欠いて果実の方に栄養が廻るようにするのだがなかなか熟さない。8月半ばにやっと赤くなってきた。20個くらいは取ったと思う。その他さやえんげんまめ、モロヘイヤの葉、ピーマン、シシトウ、そうめんかぼちゃは7個、長夕顔3個、ヒニール袋の半地下式床のゴボウは小指ほどの太さのもの7〜8本等が夏の収穫であった。

 比較的低いじめじめした所のトウモロコシは20本ほど全滅、実の熟す前にほとんと根ぐされで枯れ、3〜4本はこじれた実をつけたが、からすか他の鳥かに突っつかれ無残な結果であった。田のくろ豆は葉ばかりが茂り実がつかず秋を迎えようとしていた。

 不作もあったが、スーパーの買物袋を持ってゆけば何かはお土産を持ち帰ることができ、梅雨があけてからは、家内のぼやきも遠のくかに思えたがそれもつかの間、決定的な招かざる客がやってきた。台風4号である。

 

6.嵐来たる

 平成10年8月27日から28日未明にかけて、荒れ狂って襲ってきた台風4号は10数年ぶりの大雨をもたらし、各地に大きな傷跡を残して去っていった。テレビでは各地の状況が報道され、水戸市郊外を流れる那珂川にかかる水府橋付近の状況も放映されていた。私は学生時代を過ごし、夏は水府橋の100メートルほど下流で良く泳いだ経験がある。懐かしさと水府橋の水位の高さに驚きと不安を感じながらテレビを見ていた。

 当地川越でも夕刻から明け方にかけて猛烈な雨足が屋根のトタンや瓦をたたきつけ、風は木立をゆるがした。畑の被害へ思いの馳せる夜であった。

 翌朝車で畑に向かった。途中、新河岸川を渡る朝日橋の近くには大勢の人が心配そうな顔をして、濁流を眺めていた。橋げたすれすれのところまで水位が上がり、かろうじて流されずにあるといった状態であったが、車は行き来していた。

 恐る恐る橋を渡ると対岸の方には消防隊が出動していた。道路と堤防の間にある低い土地の朝日住宅が浸水にあっており救助作業をしているところであった。新河岸川のそこから500メートル程上流の堤防を濁流が乗り越えて低い土地にあふれたものである。

 更に我が畑の方に車を進めた。進めるだけ車を進めたがここも前方は大きな湖と化していた。道路の前方は冠水、我が畑の方を見やれば、周りの水田の稲はまったく見えず、遠く200メートル先のほうに、長夕顔の棚が頭を出して我が畑の位置を示していた。

 2〜3日して水は退いたが、泥沼化した畑にすぐには入れず1週間も経た休日に出向いた。様相は一変していた。畑には日照りに対する渇敷きと雨による泥跳ねを、更には土壌改良を意識して干し草をまんべんなく敷いていたし、畑の角には高さ50センチほど干し草を積み重ねその上から歯の細い比較的軽い備中鍬を差しておいたが、これらは跡形もなく無くなっており、ナスもトマトも全ての作物が泥をかぶって白くなり枯れていた。かろうじて水に強い里芋と八つ頭の30株ほどと半地下式のビニール袋に植え、蔓を伸ばしていた山芋が生き残った。備中鍬まで流されるとは想像だにしなかった。そしてこれがこの畑と「さよなら」する象徴的な出来事にも思えた。

 干し草のいかだに乗りて旅立ちぬ 備中鍬や今いずこ かくして、この休耕田を返すことになった。里芋等残されたものは12月初めまで放っておいたが試験的に掘ってみた。里芋も八つ頭も味は落ちていなかった。この類はサツマイモと違って粘土質の土地では育ちは悪いが味は良いものだ。山芋は5〜6本、小指ほどの太さになっていたので、翌年、次なる畑で試してみることにした。

 

7.新たなる挑戦

  台風4号による被害で休耕田を返すことになると、またまたこの道の情報通の家内の出番となった。程なくして代替え地を見つけてきた。そこは前の休耕田から150メートルほど離れ、広い道路を越え、2メートル程高い所にあった。当時は2所帯で44坪をかりていたが双方共持て余し11月に返すことになっていた。手放しの状態になっており、片隅にやせた里芋が3〜4株が残っていた。前耕者や周りの人の話では、雨がふれば泥田のようになり、乾けばひびが入りかちかちに固まり、とても割りに合わない。元は田んぼでとなりに老人ホームができる折り、そこの田んぼの泥土をここに盛り土にしたとのことである。

 昨年からの休耕田での経験からは、粘土質でも薫炭、堆肥、枯れ草等を入れ何度も耕やし土をほぐし、空気にさらせば、だんだんと畑の土になってくることを学んだ。この経験が自信となり、借りる決心に迷いはなかった。

 面積44坪、地代1万6千円/年、地主(B地主)との話は顔見知りとなっていた家内がした。 前の借り手は「どうせもうやらないんだから10月から初めてもいいよ」と言ってくれたので地主の承諾を得て、10月より新たなる挑戦が始まった。 まず、土の層を調べるべく中央部を深く掘ってみた。幅1メートル、長さ2メートル深さ70〜80センチほど掘って見た。そして尋常でないことが解った。表面の20センチほどは前耕者の努力のあとが感じられ、籾殻等が混ぜられ比較的軟らかではあったが、粘性は強く、その下は更に圧縮された粘土の層が厚く、畑には程遠い土壌である。陶器用粘土に適しているのではないかと思ったほどである。そう言えば水田の底粘土で瓦を焼いている所があるとの話も聞いたことがある。花瓶や湯飲みを作ったら面白かろうなどと思いを馳せたり、また我に返り、とんでもない所を借りてしまったと反省をしながら、かといって今更引き下がれない思いで、穴を掘った。

 

 その穴に埋めようとして、新河岸川の堤防の土手より身の丈程もある茅を直径30センチくらいに束ねたものを2束刈ってきて畑に干した。それから2〜3日してまとまった雨が降った。

 次の土曜日に出向いて見ると水がたっぷり溜って有機物を溶かして悪臭を放っている。水溜まりの上には小さな虫が群れとなって上下に飛び交っている。悪臭(醗酵した匂い)が虫を引き付けているのである。水はけが相当悪い。「しまった」と思いながら、堀を作り、水溜まりの穴にはほしてあった茅を放り込み土を掛けた。

 課題が2つ明確になってきた。1つは水はけを良くするにはどうするか。もう1つは粘性の強い土壌をいかにさらさらした土に変えるかである。これは一見別のことに思えるが関連が深い。排水が良ければ土の通気性も良くなる。土は乾いたり、水を含んだりくりかえせば風化してゆく。土の固まりは砕いてやれば空気に触れやすくなる。さらさらした薫炭や落ち葉などの堆肥を加えて耕してやれば粘性が薄れ、土が小さい粒状の団粒組織になる。そう思ったら何をなすべきかが明白に脳裏に浮かんできた。あとは根性とやる気である。あれこれと思いを巡らすうちに、ふつふつと闘士がわいてきた。4〜5年は覚悟でやってみようと決心した。

 水はけ、これには暗渠排水が思い浮かぶ。目を上げれば、150メートル先のかつての休耕田の東側には2〜3メートルもある葦が生い茂っている。葦は1年で枯れる。この枯れ葦を幾筋か畑の底に敷いてやれば水はけと保水能力が向上する。B地主の話では葦はいくら取っても文句を言う人はいないとのことであった。 

 茅もその他の枯れ草も落ち葉も土深くうめてやれば、やがて堆肥となり、土壌の改良には最適である。茅や枯れ草は新河岸川の古い堤防の土手に薮になっていた。以前は市の予算で草刈りをし、焼却していたが、民家が増えるに及んで、現場での焼却はしなくなり、川幅の拡張工事に伴う新しい堤防の芝だけが刈り取られ焼却場に運ばれた。内側の古い堤防はやがて平らに削られて河川敷きになる予定であり、草を刈り取っても誰も咎める者はいなかった。葦はここで刈り込んでくる

1/4程の面積に試みと春の収穫を多少期待して、春菊、新摘み菜、ほうれん草の種を蒔きブロッコリーの苗を10本植えてみた。地主もねぎの種を持ってきてくれたで遅れて蒔いた。

 しかし、主となる作業は当面、土壌造りである。まず排水を意識し、長方形の北側の隣接する境界線に沿ってと中央の2本(各20メートル程度)の堀を幅、深さ共60〜70センチほど堀り、葦を主体とし茅、芝等を埋めた。この作業に10日くらいはかかったと思う。慣れないのと休日しかできないので堀に相当する部分だけで11月にかかっていた。

掘起し
葦を敷き→農地に

 芝は川越市が新しい堤防の芝を刈って、しばらく山積みにして置いたものを頂いたが、2週間もしたらきれいに焼却場に運ばれてしまい、もっと頂いておけばと残念にも思った。次に、2本の堀に挟まれた所を幅1〜1.5m、深さ60〜70cm程堀り、茅、その他の枯れ草を投入し、地表に近い柔らかい土からその上に掛け、硬い粘土層はスコップで豆腐を切るようにして塊のまま後方に重ねていった。この作業が翌年(H11年)の2月まで続いた。

 重ねられた粘土の塊は山のようにうず高く、そして石のように、破片は瓦のように固まった。時折、鍬の頭でたたいて砕いたりして、風化の度合いを試した。容易には土になってはくれない。

 休日の空いていいる日は畑に出向き、意地になってスコップで掘っては埋めた。「これぞわが道場」、身体と精神を鍛える格好の場所であり、よい機会だとも思った。その内、スコップの先が割れて使えなくなり、2本目も柄の部分が折れて、3本目はオールスチールのものに買い換えた。備中鍬も柄が折れて、これは柄の部分を買って取り替えた。しかし春の植え付けに間に合うようにするには深堀は2/3の面積に留まった。

 通りがかりや周りの園芸農家の人達も声をかけてきた。「何をやっているんですか?」と、「土壌改良です。」と話すと、「そうですか」とあきれたような答えが返ってきた。後の話だが、地主や周りの園芸農家の人達から「びっくりした。まさかここまでやるとはおもわなかった。」ある人は「いつやめるかと思って見ていたががとうとう開墾したね」といってくれた。

 春に向かって粘土の塊も砕けやすくなり、砕いては耕し、薫炭や堆肥も入れては耕し、作付けもジャガイモに始まり、本年も10数種類の作物をつくった。一部化学肥料のやりすぎにより失敗もあつたが大方、程々の収穫を得た。知人にも配って喜ばれた。

 深堀した土もまだ粘り気があり改良途中である。今冬は2年目の仕上げと深堀できなかった残りの1/3の深堀と葦や茅の埋め立てに休日は精をだしている。自然の中で「いい汗」をかき風呂につかってから飲むビールもうまい。私にとって糖尿病への警鐘を感じるこの頃、この農作業は健康管理、趣味と実益を兼ねた大切な楽しみとなった。

 この畑への挑戦以来「碁会所」通いは「畑」通いに変った。好きな碁も数こそ打たなくなったが、従来の性急な「早撃ちとぽか」は少なくなったように思う。ゆったりとした自然の中に身を置くと心もおおらかになる。この心でこれからは碁もうちたい。

 土も野菜も雑草もみんなみんな生きている。彼らは言葉で何にも言わないが、じっと観察していると環境に敏感に反応しつつ、なにかを語りかけてくるように感じる。雨も、風も、太陽も生きている者へ大きな恵みを与え、エールを送り、時には鞭を振るってくる。そして時は流れる。自然の力は偉大である。いつまでもありのままの美しい自然は残したいものである。今日も新河岸川は静かにゆったりとながれている。

 赤い夕日がうす紫色の雲間に沈むころ、4時半に地元有線放送の「夕焼け小焼け」の曲が流れ、5時になると隣の上福岡からドボルザークの「家路」の曲が静かに響く、夜のとばりが漂うなかでしみじみと幸せを感じるこの頃の休日である。

平成11年12月 笠井 宗男

 

笠井君とは1961年大学入学から今年2001年まで

40年間の付き合いになった。

授業にろくに出なかった小生は学生時代の彼はあまり良くは知らないが、

ちょっと風変わりな格好をして絵を描いている姿は良く目にした。

同じ会社に入社し、3月に竣工したばかりの武蔵境の独身寮(第二武蔵野寮)に一緒に入寮した。

6月末にすぐ近くに新しい寮(第三武蔵野寮)が出来たらこれまた一緒に移転。

独身寮と言っても地元の農家に急場凌ぎに建ててもらった借り上げた寮で、まさしく殺風景。

おまけに、寮生も定員オーバーしていた住吉他の各寮から追い出しをくらった曲者の集合体。

そんな寮の中庭に一人で鍬、肥料を購入して花の種蒔いて育てていたのが

笠井君である。

 なお、私事だが入社時の全所持金1,200円也だった。4/1日入社当日に彼から即借金。以後個人銀行としても大変お世話になった@(._.)@

最近の彼は昔からの「絵」に加えて「書道」において地域の指導者として大活躍されている。

2002/1 地頭所 惇記

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